天使だ…。天使なんだった。

先生はわたしのことを好きだと言った。

あれから、わたしからは電話しないようにしていた。思い切って先生の電話番号も消した。

何より自分の心の平穏のために。

 

しばらく前に部屋の掃除していたら昔のメモ帖が出て来た。
そしてわたしは見つけてしまった「先生」を。突然の出来事にわたしは愕然とした。
けれどもそれは昔のメモで、確かその後に先生は携帯の番号を変えたと記憶していた。だから、繋がらない番号だと思った。「現在使われていません」のアナウンスが流れるんだと思った。安心してしまいたかったんだ。完全に手の届かない場所に先生は行ってしまったと思いたかったんだ。そしてわたしはその番号に電話をかけた。
呼び出し音が鳴った。わたしは驚いて瞬時に切り、慌てて履歴を削除した。心臓が破裂するかと思った。かかってこないことを祈る他に何もなかった。

そして、それも忘れかけた頃、知らない番号からの電話に、ショッピング中のわたしは出た。出てしまった。
「亜美?俺。わかる?」
わからない訳がない。知らない番号だろうが何だろうが、わたしに先生の声がわからない訳がない。ねぇ。わからない訳がないでしょう?
「電話、くれたんだね。こっちの携帯放置してたから気がつかずに電源切れてて」
「……うん」
「亜美誕生日だったね。おめでとう」
冷静を保とうと必死に心を押さえつけるあたしに、先生は今の自分の状況を説明し始めた。
「あのね、渋滞にはまってさ、総合体育館抜けたところで…」
頭に描ける。描いてしまう。わたしの知っている場所。それから、わたしの知っている先生。話しながらわたしは売り物の洋服を手に取って戻して、手に取って戻して、何度も同じ場所をウロウロして、試着室の鏡を見ながら髪の毛をなでつけたりして、どこからどうみても不審な人物だった。

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「亜美ー。亜美の羽根を貸してよ。ねぇ。渋滞抜けて飛んでいくから」
その場にぶっ倒れてしまうかと思った。
いつだったか昔、先生はわたしの背中に羽根が見えると言った。羽ばたけると言った。その羽根で亜美は飛べるんだよ、天使なんだった、と。映画の撮影用に付けたあの羽根ではなく、本物の羽根があると。
本当に、わたしの背中には羽根があったんだろうか。わたしは飛べたんだろうか。涙が出た。その時先生が見た羽根も、いまは消えている。そんなもの、とっくに消えている。とっくにない。ない。なぜなら先生がいないから。先生がいなかったから。先生がいないわたしに羽根なんか。そんなもの。

悲しくて、悔しくて、せつなくて泣いた。
電話を切ってから泣いた。羽根なんかなくていい。先生なんかいなくていい。履歴を削除した。どっと押し寄せる疲労に肩を落として泣いた。どうして先生はいつまでも先生なんだ。一瞬でわたしを連れ去ってしまう。何もかもからわたしを引っぱがして当時の世界に連れ去ってしまう。先生のために生きていたようなあの頃に連れ去ってしまう。それも一瞬で。たったの一瞬で。


狂ってる。

ショッピングセンターからの帰り道、何もかもが先生だった。隣を走る車の艶やかな赤い色も、ガソリン値段の点滅するサインも、しぼりたてオレンジジュースのような男子学生達も、何もかもが先生と結びついてしまう。何もかもが。何もかもが先生だった昔のように、鮮やかな色々。
そして、どんどん拍車がかかる倦怠感にわたしは自分で驚いてしまう。


こんなの本当に全く狂ってる。

天気読み

坂道を降りたところに桜の木が一本だけ立っていた。コンビニからの帰り道。贅沢な春休み。映画の撮影の合間。4月上旬の夜のことだった。
わたしは先生のほうを振り返って頭上を指差した。
「見て、満開」
もう少しふたりだけでいたかった。理由はなんでもよかった。先生が立ち止まってくれたことにわたしは嬉しくなった。
オレンジ色の街灯に照らされて、桜の花は、より柔らかく見える。ずいぶんと長い間、わたしたちはそこに立っていた。わたしは先生の横顔ばかりを見ていた。この人ともっと一緒にいたいと思った。もっと何時間も、とかではなく、もっと。明日も明後日も、よりももっと。ずっと、思っていた。ずっと。最初からずっと。
「ずっと一緒にいようよ」
わたしはしらふで言った。
天気が良くて風が強くて寒くて、みんなの輪から抜け出したわたしたちは酔狂で、何もかもがばかばかしくて幸福すぎた。

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そして時は2020。今年は謎のウイルスで世界はパニックになり、先生を思い出す毎年のお花見もできなかった。梅雨はうんざりするほどとても長く、梅雨明けすれば上昇する気温のせいでデータマップが真っ赤に染まる。毎日とてつもなく暑い。麦茶を飲む。梅干しを食べる。東京オリンピックは延期になってしまった。行く予定だったライブやフェスも中止になった。きっと歴史に残るような年だ。教科書に載る。そんな時を生きている。わたしの花柄のマスクはりこちゃんが作ってくれた。リバーシブルでかわいい。米津玄師の最新のアルバムはこんな時代にも関わらず100万枚以上売れている。世の中はカオス。

 

なんでもなかったあの春の日に戻れたらいいのに。

「ずっと一緒にいようよ」

先生は、あははと笑った。

 

先生から電話がかかった。

スマホの画面が光り、名前を見たわたしは驚きのあまりにスマホを投げ出しそうになった。ほどなくして留守電に切り替わった。わたしはそれをじっと見ていた。
「ひさしぶり。特に用事はなかったんだけどね」

そっか。

「ひさしぶり。特に用事はなかったんだけどね」

20秒のその留守電のメッセージをわたしは何度も聞いて、とっくに諳んじてしまった。そしてわざと思い出す。先生の色々を強引に思い出して、じたばたしてみる。何でもいいから先生に翻弄されていたい。先生の腕の中で溺れたい。貰った傷さえ輝きのそのひとつ。

先生を好きで仕方がない。未だにどうしようもない。もうどうしようもない。先生が他の誰を好きでも、わたしは先生が好きで本当にどうしようもない。
いい音楽に出会ったら伝えたい。いい映画に出会ったら伝えたい。いい音楽じゃなくてもいい映画じゃなくても伝えたい。あのアルバム期待してたけどいまいちだったなァとかでも話したい。なんでも言いたい。毎日思う。今描いてる絵がとても楽しいとか、もうすぐセレスティーナがイタリアから帰ってくるよとか、今日洗濯物干してたら網戸がはずれてさぁとか、本当は色々話したい。昔みたいに、話し疲れて眠くなるまで喋っていたい。晴れた朝になって笑われてもいい。側にいても離れてても近くにいたい。年月なんてあてにならない。時間が経っても忘れるわけがない。もしかしたらもう恋とか愛とかじゃないかもしれない。なんか、ただ、訳のわからない、すごい衝動。そして、もう、どうしようもなくて、ただ、途方に暮れてしまう。

浮き世のすべてが恋しくてたまらなかった

先生に電話した日をいつもカレンダーに記していた。最後に電話して2週間経ったからそろそろいいかもしれない。テレビに椎名林檎が出るからそれを理由に、ただ単に、思いついたから電話したって感じで。「見れないから録画しておいて」って言おう。また今度電話する理由ができる。喋りすぎないようにしよう。はしゃいだりしないようにしよう。大丈夫。絶対大丈夫。

 

何度電話してもそんなふうに緊張した。電話ごときに。
毎回3時間くらい喋るくせに。

「今日の夜、電話するね」ってLINEを送った日は怖気付いて友達に電話する。逃げる理由を作る。
「今日の夜空いてたらどっか遊びにいこうよ。うん。ガストでいい」
そんでガストで友達と騒ぎながら先生にLINEする。
「今友達とガストいるのー」
「電話はどうする?」
「今度暇な時に電話して?」
「わかった」
わたしはホッとしながらガッカリする。そして今度は「どうかどうか電話がかかってきませんように」と心の中、本気で祈る。でもかかってくる。うわ嫌だどうしよう!とか思いながらホッとする。あぁよかった。嬉しい。わたしのことを覚えていてくれたのね。先生もひとりでいるときにわたしのことを少しでも考えてくれたり思い出してくれたりするんだろうか。もしそうなら神様、それは奇跡よ。

 

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16歳だった。出会った日、その日から、ずっとギリギリで生きてた。1ミリでも後ろに下がったら裏側へ落ちてしまうような、そんなギリギリの淵を歩いてた。 たった一言が嬉しくてもうそれだけで死んでしまいそうになっていた。思い出しただけでわたしは一生しあわせでいられると思っていたりした。電話を切ったあとに窓から携帯放り投げて走りだしたいくらい嬉しかったりした。浮き世のすべてが恋しくてたまらなかった。そして、たった一言に傷ついてそれだけで死んでしまいそうになっていた。一喜一憂しすぎて本当に死んでしまうと思った。置いて行かれそうでこわかった。いつかホントのこと言われるんじゃないかと思ってこわかった。だんだん訳が分からなくなってきて、先生の心も居場所も髪も笑顔もどうでもよくなって、もういっそ電話もLINEもなくなって、そしたらわたしは一生しあわせなままで、思い出と妄想それだけで生きていけるだろうと思ったの。半分狂気。

ホントは椎名林檎CUNEもどうでもよかった。シムズもポールスミスもどうでもよかった。映画だって先生巻き込まないで撮ればいい話だったんだ。でも、そんなのも、もう過ぎた話。

いろんなことを話しすぎて、どうでもいいことを毎回わたしは何時間も本気で話しすぎて、何をしてても何の曲を聴いても何の本を読んでも先生を思い出すよ。

 

神様、本当は神様なんていない

 「ちゃんと話すから、ちゃんと聞いて欲しいの」

前日、わたしの話をはぐらかした先生に電話をかけて、わたしはゆっくりと言った。
「ちゃんと聞いてね?」
わたしは体育座りをして、自分の裸足のつまさきを見つめながら言った。今でも鮮明に覚えている。とても忘れることなんか出来ないあの時の会話。遊園地とショットバーとファミレスをハジゴして先生と別れた、その数日後の夜のこと。
「うん。ちゃんと聞くよ」
とても穏やかな声で先生は言った。それだけでわたしはもう泣き出しそうになった。わたしが何を言うか先生はもうわかっていたと思う。今更こんなことを言うべきじゃないことも、本当は先生がそれを聞きたくないことも、お互いにわかっていた。それでも言葉にしてしまわなければ、わたしは本当に潰れてしまいそうだった。先生が好きで、何もかもが先生で、毎日わたしはバカみたいに先生の夢を見過ぎて、バカみたいに一喜一憂しすぎて、潰れてしまうと思った。尊敬と憧れと緊張と興奮と嫉妬と期待。その感情の嵐で。

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「せんせ?」
「うん?」
一言一言がとても重たい。
「わたし、先生のことがすきなんだ」
「うん。ありがとう」
「先生は?わたしのことがすき?」
「うん。好きだよ。でもね」
まばたきの音が聞こえてしまうくらいにわたしは何度も大きくまばたきを繰り返した。嬉しかったからじゃない。どうしていいかわからなかった。

「でもね」

こんな質問をするんじゃなかったと思った。どう答えられてもたまったもんじゃない。確かに先生はわたしを好きだと言った。でも、だから、それがどうだっていうんだろう。それで何かが変わるの?

「でもね、俺、彼女がいるんだ」

知ってる。

そんなの知ってるわ。
でも先生は、これからもわたしと一緒に居たいと言ってくれた。恋愛云々ではなくて、人間として。確かに亜美の作っていく未来は不知顔だけど、また一緒に笑ったり飛んだり大きく驚いたりしていきたいと。ずるいわ。そんなのってないわ。

「先生、わたしが死んだら泣く?」

意地悪を言った。

「は?バカか?死なないでいてくれよ?」

狼狽したような声を先生は出した。

神様、本当は神様なんていない。

わたしは先生を好きだけど、たぶんずっと好きなままだけど、そのうちきっと忘れてしまうだろう。忘れようとしなくても、忘れたくなくても、忘れてしまうだろう。でも、そうすればきっといつかまた会える。神様なんていない。わたしはこういう手段で永遠に先生を手に入れるの。

なくさないわ。

稲妻の様に生きていたいだけ

遊園地で遊び終えて、スカイラークにたどり着いたのは午後11時。わたしたちはすっかり疲れ果てていた。午後から天気は良くなったけど星は見えない夜だった。店内は明るすぎて逆に気分は暗くなった。あぁ、そっか、もうすぐ帰らなきゃいけないんだ。そう思うと途端に食欲がなくなった。先生の顔もまっすぐに見ることができない。

「どうかした?」
向かいの席に座った先生がわたしの視線の先を探して振り返りながら言った。
「お酒飲んだから眠たいだけよ」
嘘をつくのは得意だけど、わざと視線を泳がせて、わざとぎこちなく微笑んでみせた。窓の外にボーリング場の看板が見える。赤いネオンが頼りなさ気に光っていた。視線の持って行き場が他になかったわたしは、それを一文字ずつ何度も何度も目で追って読んだ。

今日のデートが終わっても、わたしたち、また会えるのかしら。
そりゃ会えるよな、友達だもの。
自問自答して悲しくなった。わたしたち「友達」。 卒業してから「友達になれたね」と先生はわたしに言った。「先生と生徒」ではなくなったけど、まだただの「友達」だ。
男と女であることはとてもめんどくさい。わたしも男だったらよかったと先生に出会ってから何度も思った。わたしが男ならきっともっと先生と仲良くなれるし、きっともっと一緒にいられる。また会えるかどうか心配になったりしないし、お互いの恋人の話もできる。だけど、どれだけ願ってもわたしは女であることに変わりはないし(いくら中身が男っぽくあっても)、それに決定的な悲劇は、わたしが女の感情で男の先生を好きなことだった。それはもう呆れるほどひたすらに。だから、本当に、どうしようもない。

運ばれてきたものを食べ終わっても、わたしたちは席を立たなかった。お互いほとんど口も開かなかった。先生がテーブルの上の煙草に手を伸ばす度にあたしの心臓は止まりそうになる。それをポケットに仕舞って立ち上がるのか、それとも火をつけるのか。煙草に火がつくとわたしはバカみたいに胸をなでおろす。
よかった。まだ数分は一緒にいられる。


この前の夜は、髪を撫でて頬に触れた。雨が降っていた。先生はわたしが選んだネクタイをしていた。ストライプのナロータイ。伊勢丹で買った。亜美が選んだのにするから決めてよ、と先生が言ったんだ。

 

悪いことをしたからって、それがそんなに悪いことだろうか。
側にいたくて、触れたくて、どうしようもないのに。

こんな一瞬のきらめきの中、こんなにも近くにいるっていうのに。

 

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ボーリング場のネオンが消えた。壁の時計を見ると針がちょうど12時を指していた。
ゲスの極み乙女の曲がどうだとか、妹の友達がどうだとか、先生がつけている薔薇のピンバッッジがかわいいとか、わたしの髪の毛がライオンみたいだとか、もう眠いとか、もう疲れたとか、そんなどうでもいいことをわたしたちはポツポツと話していた。先生はさっきから何度も何度も煙草に手を伸ばし、わたしの心臓をドキドキさせる。
「眠いから顔洗ってくるわ」
そう言って先生は席を立った。わたしは面食らった。なにそれ、意味がわからない。全然わからない。泣きそう。早く「帰ろう」って言ってくれたらいいのに。そしたら帰れるのに。一緒にいたいけど、もう帰りたいわ。帰りたいけど、帰りたくないけど、もう帰りたい。

結局店を出たのは1時半だった。息苦しさに耐えられなくなったわたしが、帰ろう、と言ったんだった。先生はホッとしただろう。同じようにわたしもホッとした。

「またね、おやすみ」
それだけ言って車を降りた。振り返るもんかと思った。絶対に振り返るもんか。

部屋に戻って床にぺたんと座って、さっき先生にもらった白いライター(昼間に行った遊園地の帰りに先生が買ったもので、帰り際にわたしがねだったもの)を取り出して無駄に火を付けてみた。そしたら今まで我慢していた涙が出てきて止まらなくなった。


窓の外はもう明るい。いつのまにかもう朝だ。
かばんの中に先生のデジカメが紛れ込んでいて、わたしは、あぁ、よかった、これでまた電話する言い訳ができる。あぁ、よかった、しあわせだなぁって、そう思うんだった。